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 勝浦城  
         
         
   
         
勝浦城CG、写真 勝浦城下  
         
 1542年(天文11年)里見家と同名関係にあった正木時茂は里見義堯の願いにより東上総の制圧にのりだし真里谷武田氏の城である勝浦城を攻略しました、1544年(天文13年)には真里谷武田朝信の守る小田喜城(大多喜城)を攻略して此処を本拠地とします、これにより時茂は弟の正木時忠を勝浦城の城主と定め勝浦正木氏が成立します。  

 
         
里見氏への反旗  
         
 勝浦城主となった正木時忠は兄時茂と共に小田原北条氏の房総侵攻を食止めつつ旧真里谷武田氏、上総千葉氏と交戦してその勢力を拡大しましす、小田原北条氏との交戦において里見方の主力であった勝浦正木氏の水軍は主に海賊衆を束ねた編制でありました。その後小田喜城の正木氏が衰退すると正木時忠は正木氏の中核と成りますが1564年(永禄7年)第二次国府台の合戦で里見義堯が北条氏康に大敗すると里見氏を見限り小田原北条氏と同名を結び次男「正木時長」(後の頼忠)を人質として差出ます、しかし小田原北条氏がかねてより甲斐武田氏と結んでいた甲相同名が破局すると小田原北条氏が甲斐武田氏との交戦にあけくれて正木氏への支援が停滞してしまいそれを懸念した時忠は里見氏の軍門へ帰服します、その後時忠と嫡男正木時通が相次いで死去すると小田原北条氏の人質となっていた頼忠(時長から改名)が勝浦城へ呼び戻され事実上正木家当主となります。
 しかし1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際して主君「里見義康」の失態により下総、上総の所領が没収され正木氏の領地も取上げとなり頼忠は里見氏を頼り安房へと逃れ後に出家しました。
 

 
         
 於万の方  
         
 頼忠が小田原北条氏の人質時代に為春と於万の男女二児がいました、娘於万は徳川家康の側室となりそれに乗じて為春は正木氏の先祖である三浦姓を名乗り三浦為春と改名して家康の家臣と成ります、於万の子「長福丸」(徳川頼宣)は徳川紀州藩の初代藩主に「鶴千代」(徳川頼房)は徳川水戸藩の初代藩主となっています、徳川御三家の内の二家が正木氏の血筋によるものです。  

 
         
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