関東、温泉と旅行記  入間、比企方面      
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 川越城  
         
         
   
         
川越城CG、写真1 川越城CG,写真2 古都川越城下 童謡(とおりゃんせ) の道筋  
       
 築城年代 長禄元年(1457)  
         
 埼玉県川越市には川越城が築城される以前現在の川越城より北西4kmの上戸に河越氏館と呼ばれる方形状の館が存在していました、この館は秩父党河越氏の館で入間方面の中心地でした、1368年(正平23年)河越氏が反旗をひるがえし平一揆と呼ばれた秩父党武士団を中心とした軍閥を組織して河越館に籠城しますが敗退し滅びます、その後入間方面の河越氏旧所領は鎌倉府(南北朝騒乱時代に関東平定の為に置かれたた鎌倉将軍職で所謂室町幕府から派遣された支社長の様な存在)の管理下と成りますが4代目鎌倉公方職(鎌倉将軍職)足利持氏は中央の室町将軍職に野心を抱きこれもまた反旗をひるがえしたのですが1441年(嘉吉3年)幕府の大軍に攻められ敗退し自害します、この事件は室町幕府と鎌倉府のとの対立戦のはじまりです、鎌倉公方足利持氏には安王丸、春王丸の2人の遺児がいました、2人は持氏が自害した後に結城氏朝に保護され氏朝は安王丸、春王丸をたて結城城に籠城し幕府に対抗します(結城の合戦)、結城城は落城安王丸、春王丸は殺害され一旦鎌倉公方職は途絶えたのですが結城の合戦を見るに当時の関東は室町幕府から離れ鎌倉府を中心とした独自の政権体制を必要としていた武士団が存在していた事がわかります、其れゆえ持氏のもう一人の遺児永寿王が1449年(宝徳元年)鎌倉に復帰し鎌倉公方を引き継ぎ元服して足利成氏を名乗りその補佐役として山ノ内上杉憲忠が関東管領職に就任し鎌倉府体制は再構築される事と成ったのですが成氏と憲忠の確執から成氏は憲忠を殺害し鎌倉を出て下総古河に居を構えて古河公方と称し関東独立政権の旗を翻し関東管領家山ノ内上杉氏に対抗します(享徳の大乱)、成氏方には主に千葉氏、結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏など関東東部の有力武士団が見方につき武蔵国、下総国の国境付近が最前線となりました。  

 
         
 川越城築城  
         
 当初、古河公方、関東管領の戦いは古河方優勢で管領方は急遽前線に防衛線を張る必要性に迫られます、1457年(長禄元年)太田資長(太田道灌)が江戸城を築城、太田資真が岩槻城、川越城を築城し山ノ内上杉氏の身内である扇谷上杉持朝が川越城に入り幕府からの援軍を引連れた渋川義鏡が蕨城に享徳の大乱鎮圧の総大将として入城します、これは中山道の押さえと同時に防衛線として川越城を後方司令部とした防衛態勢でこの時点から管領方の反撃が開始されるのです。  

 
         
 長尾景春逆心  
         
 大乱勃発から16年が経過した1473年(文明5年)山ノ内上杉氏の執事職長尾景信が没する、此れにより関東管領山ノ内上杉顕定は景信の弟の忠景を執事職に任命します、しかし景信の子景春は当然自分が執事職を継ぐと考えていた為この人事に対して不満を募らせ1476年(文明8年)太田道灌が今川家の内紛鎮圧の為に駿河へ出兵しているすきに鉢形城へ籠城し管領家に反旗をひるがえします、更に翌年の文明9年景春は武蔵五十子に陣を張っていた顕定に急襲をかけて上野国へ後退させたのです。また時を同じくして武蔵国豊島郡を領有する豊島氏及び荏原郡を領有する江戸氏が太田道灌の江戸城建設により隣接する所領を脅かされる事を恐れ管領軍に戦線布告、当然景春、江戸氏、豊島氏は古河公方足利成氏と結託します、この大乱の最前線に立ったのが山ノ内上杉氏の一族である扇谷上杉氏の家臣太田道灌です、道灌はまず江戸氏、豊島氏を江古田、沼袋で撃破し景春の鉢形城を落城させ景春を奥秩父に追詰め更に奥秩父に兵を送り景春を敗走させその後の1482年(文明14年)大乱は室町幕府将軍足利義政と古河公方足利成氏の和睦により終息します(都鄙の合体)、しかしこれら一連の道灌の活躍は必ずしも管領山ノ内上杉氏の評価を受けるものでは無くむしろ拡大する道灌の勢いを警戒するに至ったのです、関東管領山ノ内上杉顕定は道灌の主君である扇谷上杉定正に道灌を批難中傷し1486年(文明18年)定正は道灌を相模の糟屋にて殺害、道灌は死に際して(当方滅亡)と号したと云われています。  

 
         
 山ノ内、扇谷上杉氏の対立  
         
 太田道灌により均衡を保たれていた管領山ノ内上杉氏と扇谷上杉氏の関係は道灌亡き後摩擦が生じる様に成り更に定正は顕定の道灌に対する中傷が事実にそぐわない事を知ると怒りを露にし終に1488年(長享2年)武蔵国比企郡須賀谷原、高見原で激突しました、この時定正は川越城から、顕定は鉢形城から出陣したと云われています、扇谷方には二代目古河公方足利政氏が支援、山ノ内方には道灌を暗殺された事から定正に反感持った道灌の適子資康を筆頭に太田氏が見方しました、定正は1494年(明応3年)の高見原の決戦で急死朝良が跡を継ぎます、1504年((永正元年)顕定は江戸城攻略の為に武蔵南部へ出陣し立河原で山ノ内、扇谷両軍は対陣、双方多大な犠牲を出して朝良は顕定を破り川越城へ戻ります、この戦いで伊勢長氏(北条早雲)、今川氏親が朝良を援けるのですが同時に新興勢力である北条氏を武蔵国内に受け入れる結果と成るのです、同年顕定は上戸(河越館)に陣を張り扇谷の本拠地である川越城へ攻撃をかけ逆に朝良は川越城から上戸の河越館に攻撃をかけています。  

 
         
 北条氏の武蔵国進出  
         
 立河原の戦いの翌年の永正2年に顕定と朝良は一旦和睦し朝良は家督を弟朝興に譲り江戸城へ退き隠居し1518年(永正15年)に没します、1524年(大永4年)伊勢長氏の子北条氏綱は朝興の守る江戸城を攻略朝興は川越城へと退去しいよいよ北条氏の武蔵進出が本格化してきます、1535年(天文4年)朝興の守る川越城を氏綱が攻撃をかけ更に1537年(天文6年)の川越城争奪戦ではを川越城を落城させています、この間に朝興は川越城内で没し継いで子息朝定が川越城を守っていました、朝定は川越城落城の同年武蔵三ツ木原で氏綱と戦い川越城の奪回を図りますが敗北して武州松山城へと退きます。
 1546年(天文15年)関東管領山ノ内上杉憲政の呼びかけで古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定の三者による川越城攻略戦が展開されます、憲政はまず駿河の今川義元と連携をとり義元は以前に氏綱により駿河長久保城を攻略された事から長久保城を撤回せんと東海方面から攻撃をかけ憲定は晴氏、朝定及び長野、倉賀野、大石、成田、藤田、難波田、上田、小田ら関東八州の諸氏合わせて8万の軍勢により川越城を包囲します、川越城は北条綱成が3千の兵で防衛にあたっていました、この北条綱成と云う人物もともと福島綱成と名乗り父福島正成は遠江国土方城の城主でしたが1536年(天文6年)の今川家の内紛で今川義元に父正成は殺され綱成は氏綱の元へ落延びた後福島から北条へと改姓し川越城主に就任したと云われています(後に玉縄城主と成る)。包囲状態にある川越城へ北条氏康は8千の軍勢を引連れて到着しますが8万の軍勢により包囲された川越城をまともに救出する事はかなわないと考えた氏康は上杉方へ和睦の願いを申し立てますが受け入れられませんでした、しかしこれは上杉方を油断させる氏康の策略で1546年の4月20日の夜に川越城内の綱成と示しあわせて憲政の本陣砂久保へ夜襲をかけ上杉軍をけ散らし川越城の救出に成功します、世に云う(川越夜戦)です、実際に夜戦が展開されたかどうかははっきり分かっていませんがこの後管領上杉憲政は上野国平井城に後退、古河公方足利晴氏は古河へ退去、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉は断絶した事からこの日なんらかの大きな合戦があったのは事実として考えられています、川越城救出戦以後の武蔵国の覇権は北条氏が握る事とに成ります。
 

 
         
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