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                                   柏原城



        


     柏原城CG写真



     築城年代 1353年(正平8年)以降


 柏城は1546年(天文15年)川越夜戦において川越城の小田原北条氏攻撃の為に関東管領山ノ内上杉憲政により築城されたと伝えられていますがそれ以前1353年(正平8年)南北朝の騒乱の際に足利尊氏の三男基氏が新田氏などの上野国、信濃国、越後国の南朝勢力と対抗する為に築城した砦で所謂入間川陣城であったとも云われています。




                              入間川御所 


 
 1352年(正平7年)武蔵野の合戦で南朝方の新田義貞の遺児義興・義宗を撃破して越後へ後退させた足利尊氏は当時まだ14歳であった三男基氏に上野、越後の南朝勢力に対して畠山国清を補佐とし入間川へ在陣を命じます、入間川に駐屯した基氏は後に鎌倉公方職(鎌倉将軍職)に就任し入間川の陣城は入間川御所と呼ばれました。

 さてその入間川御所の所在についてですが当城の柏原城以外に西武新宿線狭山市駅西の徳林寺または駅東の祇園町であったとも云われ更に入間川河川沿いには幾つかその候補と成る所があります、しかし近年の研究で入間川御所は徳林寺が有力視され他の候補はその出城的な役割を果たしていたと考えられています。


                                徳林寺


                

 徳林寺南を鎌倉街道上道本道が通り入間川を渡る八丁の渡し場へと向かっています、また徳林寺からは北朝年号の板碑が数基発見されています。 


                             徳林寺、柏原城周辺


         

 徳林寺の御所は入間川を防衛線として上野方面へ通じる鎌倉街道上道本道の押さえであった考えられそれに対して柏原城は上道の支道堀兼筋が加佐志で分岐して入間川を渡り城の南側をぬけている事から堀兼筋を守る為に築城されたものと考えられます、また加佐志で分岐した一方の堀兼筋は川越市上戸の河越氏館へと通じています、河越氏は関東北朝方の主力部隊である平一揆の首領的武士団でこの館もまた入間川河川沿いに在る事から入間川防衛線の一環と成っていたのでしょう。


                            入間川と柏原城


                 

 堀兼筋の守備を目的として築城された柏原城ですがその防衛線である入間川流路そのものを守る意味も持っていたのです、当時入間川は品川、六浦などの湊から物品を積んだ廻船が頻繁に往来していました、入間川御所とその付近には常時数千から数万の兵が駐屯していた為に兵糧、武器または生活品の消費は多大なものでありそれら消耗品の輸送に入間川が大いに利用され柏原城はその輸送路である入間川流路を確保する目的もあったと考えられます。


 当時西国から運ばれた交易品は品川、六浦など主要な湊で小型の廻船に積みかえられ入間川(現荒川)輸送路として武蔵国奥地へと運ばれていました、その廻船の一部は柏原城から入間川沿い5kmに在る河越氏館(河越氏館から出土した交易品)を経由して入間郡西部へと向かっていたのです、入間川陣城に駐屯する兵の生活品はそれら廻船に便乗するかたち輸送されたと考えられ柏原城はその入間川陣城の生命線である入間川を死守目的もかねて築城されたのです。

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