関東、温泉と旅行記  箱根、湯河原、小田原方面      
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 山中城  
         
         
   
         
山中城CG、写真1 山中城CG、写真2  
         
 築城年代 16世紀中頃  
         
  山中城の築城年代については色々な説が唱えられていますが大凡小田原北条氏と今川氏、武田氏の合戦が激化した16世紀中頃の天文年間には山中城の原型が構築されていたと考えられています、その後1554年(天文23年)の小田原北条氏、武田氏、今川氏の甲相駿同盟が結ばれると山中城の任務は一旦軽減されます、しかし1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐が始まると豊臣方の侵攻筋である東海道の箱根峠は防衛拠点となり山中城の役割は再度重要視され大々的な改築が行われました。  

 
         
 豊臣方の山中城攻撃  
         
  1590年(天正18年)小田原攻めに際して豊臣方の諸大名は沼津に集結しましす、そこへ豊臣秀吉の本隊が当直し早々に軍義が開かれました、軍義において山中城は豊臣方の侵攻筋にあたる東海道箱根峠に位置している為に速やか落城させなければならないとの結論に達して「羽柴秀次」を総大将に田中、中村、堀尾、山内、一柳、渡辺の軍勢合わせて7万を先発隊として山中城へ差し向けます、それに対して山中城を守る北条方は城代の松田康長、北条氏勝、間宮康俊、朝倉景澄の4000の兵で防備固めていました。  

 
         
 岱崎出丸の攻防戦  
         
  秀次率いる先発隊は天正18年の3月29日の正午に山中城に到着し午後3時に山中城の南側の出丸である岱崎出丸に中村一氏、山内一豊が攻撃を開始します、岱崎出丸は北側の本城との間に東海道筋を挟む形で新規に構築された郭です、そこへ総攻撃かけたのですが城内より鉄砲を次から次へと打ちかけてきた為になかなか占領には及びません、そこで中村一氏の隊が出丸の100m手前に土塁を築いてそこから一気に出丸に押し寄せ岱崎出丸を占領しました、この攻防戦で豊臣方の一柳直末は鉄砲に撃たれ討ち死にしています。  

 
         
 三ノ郭、ニノ郭の攻略  
         
   三ノ郭とニノ郭は渡辺勘兵衛の隊を先陣に攻撃がかけられました、二ノ郭と三ノ郭は本城の中央に位置する郭で此処を攻め落とせば本城は東西に分断されます、当初両郭からの鉄砲による攻撃に勘兵衛の隊は苦戦しましたが強行突破をかけて両郭を攻略します、攻略後勘兵衛は家臣に高台の木の上から周囲を確認させます、それにより本郭と反対方向の西ノ郭を本郭と誤認してしまい豊臣軍は西ノ郭へと殺到しました、
なぜ西ノ郭を本郭と間違えたのかは西ノ郭周囲は障子堀が囲み更にその東側は深い堀切があり高台に位置する強固な守りであったので本郭と勘違いしたと考えられます、実際山中城の城代松田康長は西ノ郭で指揮をとっていました。
 

 
         
 山中城の落城  
         
  西ノ郭に豊臣方の兵が西ノ郭に集まり西ノ郭の上と下で長槍に突きあいが行われます、それにより北条方の兵は次々に倒されて豊臣方の兵は西ノ郭に押し入ります、北条方の残った兵は西ノ郭の更に西側にある西櫓の郭へ逃げ込みますが此処も程なく落とされ城代松田康長は討ち死にして山中城は落城しました、小田原北条氏の築城技術を総結集させて築城された山中城は攻撃開始から落城までわずか半日程であったと云います。  

 
         
         
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