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 新井城  
         
         
   
         
新井城CG、写真  
         
 築城年代 15世紀以前  
         
 新井城が築城された年代は不明ですが、1512年(永正9年)に三浦義同、義意の親子は伊勢盛時(北条早雲)の相模国侵攻により岡崎城、住吉城を落とされ新井城に逃れたとある事から16世紀初頭にすでに新井城は存在していた事になります。  

 
         
 新井城の兵糧攻め  
         
 1495年(明応4年)伊勢盛時(北条早雲)は大森氏より小田原城を奪い取ります、その後1512年(永正9年)には相模国の守護職である三浦氏が守る岡崎城、住吉城を落城させます、その為三浦氏の当主三浦義同と子三浦義意は全軍を終結させ新井城に籠城しました、盛時は新井城の堅固さから力攻めを断念して鎌倉近くに玉縄城を築城し新井城の三浦勢を釘付けにして兵糧を絶つ事にしました、所謂兵糧攻めです、基本的に兵糧攻めは城兵の数が多ければ多い程効果は大きく新井城に三浦勢が全軍集結している事に目を付けた盛時は兵糧攻めを選択したのです。  

 
         
 新井城の落城  
         
 兵糧攻めが開始されて3年が過ぎた1516年(永正13年)新井城の兵糧が底をつきかけた頃に新井城救済の為扇谷上杉朝興が玉縄城へ軍を向けます、朝興の軍と新井城の双方から盛時の玉縄城を挟み撃ちにする作戦に出たのです、盛時は一旦朝興軍と玉縄城近くで交戦して此れを撃破しそのまま新井城に押し寄せます、新井城側は一度上総へ逃れ再起を図るとの意見も出ましたが義同はその意見を退け決戦の意を示します、1516年(永正16年)7月10日新井城内では最後の酒盛りが行わてれ翌日の10日には城門が開かれて城兵が一斉に打って出ました、激しい戦闘の中で義同の子三浦義意は一人前へ出て敵軍を向かえ打ちます、義意は身の丈が七尺五寸(2m18cm)あり鋼を巻き付けた八角のこん棒を振りまして盛時軍を蹴散らします、義意は一度に5人、10人打ちのめしたと云います、しかし盛時の大軍の前に奮闘のかいも無く義同、義意親子は自害し鎌倉期以来の名族三浦氏は滅亡しました。
 その後小田原北条氏と里見氏の対立が激しく成ると水軍力で勝る里見氏と対抗する為に小田原北条氏は海賊衆を取り込み水軍を編制させ新井城をその水軍基地としています。
 

 
         
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