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                       古河公方館





        


 古河公方館CG、写真


  築城年代 1455年(享徳4年)


 1455年(康政元年)(享徳4年)鎌倉公方足利成氏は鎌倉公方足利氏と関東管領山ノ内上杉氏の確執により勃発した「享徳の大乱」の為に下総古河に退去します、成氏は急遽古河城を築城し防戦態勢を固め次いで関東公方職の政務を執行する為の御所を古河城の本郭から南1kmの鴻巣の地に建てます、これが古河公方館です。



                             足利成氏の古河退去

 1349年(貞和5年)室町将軍足利尊氏と弟の足利直義が対立し「観応の擾乱」勃発します、尊氏は次男足利基氏を鎌倉に下して基氏に室町将軍職と同等の権限を与え乱の鎮圧と関東の統治を委託しましした、これが鎌倉公方職です、更に尊氏は基氏の補佐を務める関東管領職に上杉憲顕を任命し鎌倉府体制を確立します、しかしこの鎌倉府体制は二代目鎌倉公方足利氏満の頃には室町幕府との確執が既に始まり1438年(永享10年)四代目足利持氏は室町幕府と関東管領上杉憲実に対して宣戦布告し「永享の乱」が勃発しました、乱は鎮圧され持氏は自害しますが持氏方に付いていた結城氏朝は持氏の遺児である春王丸と徳王丸を囲み結城城に籠城します、籠城戦の結果結城城は落城して春王丸と徳王丸は殺害されました、その後持氏の遺児の一人永寿丸が鎌倉公方に就任し足利持氏と名乗り鎌倉府体制が再開されます、しかし此れも長くは続かず1454年(享徳3年)成氏は関東管領山ノ内上杉憲忠を殺害して「享徳の乱」が起こりました、成氏は古河公方と称して下総古河に退去し古河城と古河公方館を築きます。



                               享徳の乱の結果

 成氏を支持したのは主に結城、小田、宇都宮、里見氏など関東北部から東部にかけての有力武士団で関東管領側は長尾、太田とそれに今川氏を合わせた関東管領山ノ内上杉氏の重臣並びに室町幕府の配下の大名達で所謂中央政府に対する関東諸氏の暴動でした、管領側の太田道真、太田資長(太田道灌)親子は深谷城、岩槻城、江戸城、川越城を築城して成氏方と対抗しますが管領側で山ノ内上杉氏の重臣長尾景春が山ノ内上杉氏の執事職から除外された事を恨み山ノ内上杉氏に反旗を起しました、成氏はここで一旦山ノ内上杉氏と和解し更に1479年(文明11年)室町幕府とも和解します、此れにより古河公方の立場は一応幕府の承認を受ける事になるのですが幕府は既に伊豆に古河公方に代わる堀越公方を配置していた事で関東に公方職が二人となり、更に主家山ノ内上杉氏と扇谷上杉氏が対立し関東の戦乱が収まる事はありませんでした。

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