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       秩父武甲山(武甲山の歴史)




             

                             (信玄焼で消失した秩父神社)

 秩父市と横瀬町の境に位置する武甲山は日本武尊「ヤマトタケル」が東国遠征の際に自らの甲(カブト)を当山石室に奉納した事がその名が由来とされ後に蔵王権現社が祭られ当社が成立したと伝えられていますがこれは伝説上の話で実際の成立時期については不明です、現状石灰採掘により山頂部は大きく削られ標高1304mと成り本社「蔵王権現社」は移動され甲を納めた伝説の祠や本社と同じ山頂部に存在した奥社、熊野権現社なども消滅してしまっています。



                         武甲御岳神社成立時期について

 武甲山の山名がそう呼ばれる様に成った時期は江戸期中頃からでそれ以前は武光山、妙見山と呼ばれていました、1235年(嘉禎元年)秩父大宮郷の秩父神社が落雷により炎上し再建時に妙見大菩薩を合祠して秩父妙見宮と成りその背景に聳える現武甲山を神体山として後にこの山が妙見山と呼ばれる様になります、武甲山は山そのものが秩父神社の本尊であったのです、この時期をさかいに武甲山(妙見山)の名が文献上によくよく登場します、此れ以前より山頂部に社殿、祠当の施設は存在していたかもしれませんが正式に神山と成ったのは大凡この頃と考えられます、ただしこの成立時期についてはあくまでも憶測の範囲です。



                               武甲山と信玄焼

 1569年(永禄12年)武田信玄率いる甲州軍が秩父に侵入します、武田軍は三山谷から大宮郷を通り三沢谷などで合戦し鉢形城へと進みます、この間武田軍は寺社仏閣などに火をかけて焼き払い民衆の恐怖心をあおり服従させる戦法所謂「信玄焼」を行います、この信玄焼について秩父大宮妙見宮(秩父神社)の縁起に「常盤壁磐の位山百七代に登らせる正親町天皇の永禄十二年の秋七月、甲斐武田軍兵乱入て神垣の瑞の檻仏の瓦葺も悉く焼捨て神領仏地を押領して、当社領の永楽五捨貫の地も没収せられて跡なくぞ成り果てぬ。信玄入道軍旅には通じたりと謂ども神罰の帰するとは知らざるにや」寺領、社領をも押領する横暴を行う武田軍に対して北条氏康の三男鉢形城主北条氏邦は武甲山に登り信玄追退を祈願し太刀と永三貫目の地を寄進しました。
 さて信玄は神罰をを恐れぬ振る舞いを見せつけて民衆を恐れさせる目的で信玄焼を実行したのですがその実態はどうであったのでしょうか?丁度その時期に武田家の家臣が武甲山山頂に現れ次のように述べました、(故あって社殿に火をかけさせてほしい、もし火をかけさせてくれるのなら後に今より立派なものを建て直してやる)、社人は今より立派なものを建ててもらえるならと火をかけさせたといいます、また信玄焼の翌年1570(元亀元年)に武田勢の山県三郎兵衛は現小鹿野町の光源院に高札を掲げ兵達の乱暴、狼藉を禁じ更に秩父大宮郷近くの永田城に駐屯した武田家臣井上三河守は信玄焼の後に大宮郷付近の寺社の復旧に努めています、ここに民衆の恐怖心をあおる目的で信玄焼を命じた武田信玄と秩父に駐留した家臣たちの相違が見られます、(寺社仏閣を消失させ横暴を行ったところで民衆は従わない、かえって神仏を恐れぬ愚か者と反感をかうだけだ)、秩父に駐留した武田の家臣達は民衆の心情を良く理解していました、弾圧をかけたのでは統治は不可能である事を十分に承知していたのです。



                            改作された武甲山の成立史

 江戸期中頃から妙見山は武光山、武甲山と呼ばれる様に成ります、日本武尊が甲を奉納した事から武甲山と呼ばれ武蔵国の国名もこの山名に由来するこの伝説は江戸期の初め頃に幕府の者により創作されたのではないかと推測されています、日本武尊が甲を奉納したのは東国は平定され平穏が東国にもたらされた事を意味しています、其れにちなんで徳川家康が関東に入府して幕府を成立させ日本が平和になった事と照らし合わせて創りだされた神話であり丁度その頃に日光東照宮が建設され家康を神格化した思想を一般に定着させ幕府により日本が平穏である事を主張し幕府の実権を安定させる思想的戦略に利用する目的で創られた神話であったのではないかとの説があります。

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