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足尾銅山の歴史   
         
         
   
         
通洞、小滝抗口 間藤、赤倉、 本山製錬所   
         
 足尾銅山は1877年(明治10年)に古河財閥の創設者である古河市兵衛が経営に着手して以後、近代日本の文明開化の礎と成った銅山として良く知られています、銅山最盛期の頃に足尾町の人口は大凡38000人で銅の産出量は全国1位を誇っていました、ここでは近代日本に措いて国内有数の鉱山都市であった足尾銅山の歴史について簡単に纏めてみました。  

 
         
足尾銅山の発見   
         
 通説では足尾銅山の発見は1610年(慶長15年)に備前楯山(足尾駅から北西2km、小滝抗口の裏山)で露出した銅が発見され以後、江戸幕府の直轄地となり本格的な銅の産出が始まったとされていますが、実際のところ付近の古墳から銅製の装飾品などが見つかっているので埋蔵されている銅に関しては古代の頃より知られていた事がわかります。本格的な銅の産出が行われたのは16世紀中頃で唐沢山城を本拠地として現在の栃木県南部を統治していた戦国大名の佐野氏によるものです、当時佐野氏は銅山奉行を足尾に置いたと「佐野目録不伝」に記されています、その後の戦乱で小田原北条氏や徳川家など関東の覇権が入れ代わる中で銅山の実態が曖昧となり徳川政権下において銅山の再調査が行われたと考えられます。銅山発見後に早々三代将軍の徳川家光に通達がなされ銅山奉行として藤川庄次郎が任命されています、庄次郎は鉱堀衆100名と露出した銅を探す為に山師36名を引連れて足尾におもむいたと云います。  

 
         
江戸期の足尾銅山経営   
         
 江戸期、足尾銅山の抗夫は必ずしも専属の鉱山人夫ではありませんでした、幕府が銅を必要とした時に限り抗夫として採掘作業を行う謂わば兼業抗夫で日光東照宮の造営の時には採掘作業を中断して抗夫全員、東照宮造営に借り出されています。
 1649年(慶安2年)足尾から利根川の畔「平塚河岸」(現在の群馬県伊勢崎市境平塚)まで足尾銅山街道が開通して更に足尾の町に鋳銭座(造幣所)が設けらる事により寛永通宝の生産が始まると足尾の町は大いに賑わったと云います。当時、足尾銅山の鉱山人夫は寛永通宝の生産量に応じて銅の採掘に従事していたものと考えられます。 
 
   
(足尾銅山の鉱山人夫「鉱堀衆」)   

 
         
古河市兵衛の足尾銅山買収   
         
 足尾銅山の銅の産出量は幕府の管理以後に年々増加され元禄年間には年間1200tに達しています、その生産量は当時、世界において首位であったとも云われています、しかしそれ以後に渡良瀬川の水害や台風、大火などの自然災害や鉱山人夫の不足、管理体制の不備により産出量は徐々に低下して18世紀末には一時休山となります、それまで江戸幕府は堀大工の元締から採掘した銅を買い上げていましたが生産量の向上の為に直接的な経営に乗り出します、しかし産出量は相変わらず低迷状態が続きました。
 明治維新後に足尾銅山は他の国内鉱山と同様に新政府により接収され真岡県の県営銅山と成ります、1872年(明治5年)には民間に払い下げが決定されますが幕末の生産衰退の状態から移行された為に産出量は年間150tと非常に低く経営者は幾度も代わりました。1877年(明治10年)に後の古河財閥の創設者である古河市兵衛が経営者となります、市兵衛は当時足尾銅山の経営に行き詰まりをしていた元三瀦藩の藩士である副田欣一より経営権を買収しました、買収された前年である明治9年の副田氏の足尾銅山の経営状況は収入10、000円に対して支出16、000円と略破綻状態でした、そんな悲観的な状況の中で市兵衛の足尾銅山経営は開始されたのですが結果は明治11年に48t、明治12年に92t、明治13年に91tと非常に産出量の低い状況が続きました。
 

 
         
足尾銅山の発展   
         
 市兵衛の足尾銅山経営は困難を極めていました、そんな最中の1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈である鷹之巣直利が発見されます、鷹之巣抗は本山出沢の更に上流(備前楯山西尾根)に位置する抗口で此処が発見されれば更なる有望鉱脈の発見も期待できます、そして翌年の1882年(明治15年)に廃坑となっていた本口抗(本山抗の西側)を再開発します、この本口抗は当時市兵衛の経営下で最大産出量を誇っていた草倉銅山(新潟県)をはるかに上回る産出量で明治19年の足尾銅山の収益は171、500円にまで達しました、また前年の明治18年には同じく有望鉱脈の小滝抗も再開発されています。
 足尾銅山は市兵衛の経営以後に幾つもの技術革新が行われています、例えばダイナマイトの使用、トロッコ馬車車両による産出銅の運搬、水力発電の導入などです、この様な新たな技術と有望鉱脈の発見により足尾銅山の銅産出量は飛躍的に向上したのです。 
 
 
(資材などを運搬するトロッコ馬車)  (間藤の水力発電所)  

 
         
足尾銅山鉱毒事件   
         
 1896年(明治29年)それまでとは全く異なる鉱山開発手法により通洞抗が貫通しました、それにより足尾銅山の銅産出量は更なる向上、足尾町の総人口も11年後の1907年(明治40年)には34、000人にふくれ上がります、しかし足尾銅山の銅産出量が増大するに伴いその鉱毒による被害も拡大していきました、実際のところ鉱毒被害は明治期以降に発生したのでは無く江戸期中頃には作物の立ち枯れなどで地域住民が幕府に訴えを行っていた記録があります、足尾町周辺では鉱毒ガスの影響による酸性雨で山林が荒廃、土砂崩れが幾度も発生します、渡良瀬川においては鮎などの大量死が確認されています、その後、洪水などで足尾銅山から流れ出た土砂により稲、農作物が立ち枯れを起す被害が徐々に拡大しました、この事を1885年(明治18年)に民権派の政治新聞である朝野新聞や栃木県の地方新聞の下野新聞は報じていましたが足尾銅山の鉱毒とはっきり関連付けていませんでした、この事件で足尾周辺の農民達は蜂起し衆議院議員の田中正造を中心に農民運動を起します、1890年( 明治23年)栃木県足利郡吾妻村会が足尾鉱山操業停止を求める決議を行い、翌年の明治24年には田中正造が帝國議会で足尾銅山の鉱毒について訴えます、それにより古河財閥側は示談金と1896年(明治29年)までに鉱毒発生防止策を実行して処置を行う事を約束しましたが、その1896年(明治29年)の台風で鉱毒が拡散し被害は更に拡大したのです、その為交渉は振り出しに戻ります、政府も国内の銅生産は日本の産業発展の上で重要産業と位置づけていたので足尾銅山の操業停止だけは何としても避けたいと考えていました。1901年(明治34年)に田中正造は明治天皇に直訴を行いましたが失敗します、しかしこの事で足尾銅山鉱毒事件は全国に知れ渡る事になります、その後、交渉、鉱毒対策が繰り返され渡良瀬川の流路の変更、砂防ダムの施工などにより戦後、問題が大まか解決方向に向かいましたが実際の所、現在も鉱毒被害は収束に至っていません。
 1973年(昭和48年)足尾銅山は銅鉱石が掘り尽くされた事を理由に閉山され製練作業以外は操業停止となりました。
 

 
         
 通洞、小滝抗口   間藤、赤倉、 本山製練所  
         
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