関東、温泉と旅行記  小山、佐野方面      
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 唐沢山城  
         
         
   
         
 唐沢山城CG、写真1 唐沢山城CG、写真2  
         
 築城年代 14世紀中頃  
         
 唐沢山城の城主である佐野氏は同じ下野国を本拠とする小山氏と同属で藤原秀郷を祖とする藤原姓足利氏の系統です、藤原姓である足利有綱の子基綱が下野国安蘇郡佐野庄に土着して佐野基綱と名乗ったのがはじまりです。  

 
         
 野木宮の合戦  
         
 佐野家の宗家である藤原姓足利俊綱と足利忠綱は1183年(寿永2年)志田義広(源義広)の源頼朝討伐軍に参列します、義広は常陸国から下野国に入り現在の小山市近くの野木宮に差しかかった処を突然小山朝政の軍勢に奇襲をかけられます、更に源範頼に従い佐野基綱、結城朝光、長沼宗政の軍が朝政に加勢し義広の軍勢を撃破しました、その後俊綱、忠綱親子は領国を追われ藤原姓足利氏の主家は断絶となり頼朝側についた佐野氏が後々存続する事となります。  

 
         
 古河公方に支援する佐野氏  
         
 唐沢山城が築城された頃に関東管領山ノ内上杉氏と鎌倉公方足利成氏の対立から1454年(享徳3年)享徳の大乱が勃発します、佐野家当主の佐野盛綱は公方足利成氏を支援します、後に鎌倉を追われた成氏が下総古河に退去して古河公方と称したのも佐野氏をはじめ結城氏、小山氏などの公方方の有力大名が古河周辺にいた為です、佐野氏は一時管領方の長尾景信に降伏しますが長尾氏が長尾景春の頃に成氏方へ転じると景春に従い成氏の下へ帰属します。  

 
         
 上杉謙信との抗争  
         
 1546年(天文16年)の河越夜戦で山ノ内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方足利氏が北条氏氏康に大敗すると古河公方足利晴氏は小田原北条氏の管理下に入ります、それに殉じて佐野氏は小田原北条氏と結びました、1560年(永禄3年)長尾景虎(上杉謙信)は小田原北条氏討伐と関東管領就任の鶴岡八幡宮参拝の為に関東へ侵攻します、その翌年の永禄4年と更にその翌年の5年にも景虎は関東に侵攻して唐沢山城を二度に渡り攻撃しましたが佐野昌綱は二度共景虎の攻撃をかわします、しかし永禄6年と7年の景虎の攻撃に耐え切れず昌綱は景虎に降伏し景虎の臣の富岡主税が唐沢山城代にそえられました、その後小田原北条氏と越後上杉氏が和議を結ぶと唐沢山城は佐野氏へと戻されます。  

 
         
 小田原北条氏からの養子入れ  
         
 昌綱の子佐野宗綱の代になると佐野氏は小田原北条氏との関係を断ち切り佐竹氏などの反北条連合と結びます、しかし宗綱の死後佐野氏の血筋が絶えると小田原北条氏から北条氏忠を養子として迎え入れる事になり佐野氏は北条傘下となりました、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐において佐野氏は北条方に属していた事から滅亡の危機にさらされますが昌綱の弟で宗綱の叔父にあたる佐野芳綱が秀吉の家臣となっていた事から佐野家は芳綱を当主として39000石で継続されました、ちなみに佐野芳綱は石田三成の忍城水攻めに参陣していたと云います、江戸期に入り幕府は江戸周辺の外様大名の排除に乗り出します、1614年(慶長19年)佐野家当主佐野信吉は不祥事を理由に大名を改易され約400年続いた在地領主佐野氏はここで終焉します。  

 
         
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