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 武蔵国衙
       
       
 
       
 創建 8世紀初頭
       
 701年(大宝元年)大宝律令が制定され全国に国府が置かれその国府行政官の長である国司が派遣されます、国司は武蔵国、相模国の様な国単位での祭祀、行政、司法、軍事を司る最高権力者で朝廷が律令政治を行う上で要と成る役職でした、その律令体制は大凡8世紀初頭から12世紀(末奈良期~平安期)まで続きその間に国司達は国内の豪族達をまとめ祖、庸、調などの税を徴収し国政を推進させます。

       
 国府と国衙と国庁
       
 一般に国府とは国司が政務を行う庁舎、国府の官僚の住居群、総社、国分寺、などを総じて国府と呼びます、武蔵国の様に初代国司の墓所(古墳)もその範囲に含む場合もあります、またそれ以外に兵舎、使用人の宿所も国府の内に入り所謂国府とは各国々の政治的中心都市でした、その国府の内政務を執行する庁舎群を国衙もしくは国庁と呼びます。
 
 (武蔵国分寺と国分寺尼寺)
       
 741年(天平13年)聖武天皇の詔により全国に国分寺が創建されます、この国分寺の運営も国府の管轄と成っていました。
 
 (下級官僚の住居群)  
         
 旧甲州街道沿いの大国魂神社付近から竪穴式住居群が見つかっています、これらは国府内に在る事から国府に従事する下級官僚の住居と考えられています、当時の下級官僚は一般庶民とあまりかわらない生活で収入もそれなりでした、官職を得ても貧困生活を強いられ平安期に入り律令政治の主軸である公地公民制が崩れると各地域で汚職が横行します、その状況は各国々の政務の長である国司にも至り国司の任期期間の4年~6年間に私利私欲を欲しいがままに国政を行います、それにより国内の各豪族(郡司)達は荘園の領有権を金銭、土地などをもって国司に認めさせ在地領主と成り武士団を形成するのです。  
   
 (大国魂神社、   熊野神社古墳、)  
         
 武蔵国衙は現在の大国魂神社の敷地にも架かります、大国魂神社は武蔵国の総社で国内の祭祀などは大国魂神社で行われていました、また国衙から西方3kmに位置する熊野神社古墳は武蔵国初代国司の墓と言われています。
 当時武蔵国は大国に位置づけられ国府に従事する官僚は数百人単位でそれに加えて国府の兵、下人とその家族で国府は数千人単位の町であったと考えられます。
 

 
         
 武蔵国衙の庁舎  
         
 国府の中心の役所郡である国衙は周囲を土塀で囲み南側に正門が在り内部には東西両脇に脇殿、正面に前殿、前殿の背後に正殿が配置されています、これら庁舎の配置は全国略同じです、現在武蔵国衙の庁舎の一部が大国魂神社脇に復元されています。  
   
         
 脇殿  
         
   
 南門から国衙に入ると広い空間が在り東西に役人達が処務を行う東脇殿と西脇殿が配置されています。  
         
 前殿  
         
 広場正面には前殿が置かれています、行事、会議などは国司が前殿に立ち手前の広場に役人が整列します。  
         
   
     (復元された前殿の柱と雨水溝)  
         
 前殿裏手には雨水を流し出す溝が確認されています。  
         
 庁舎の柱  
         
   
 各庁舎は基礎に基壇が設けられ礎石が置かれた堀立柱建物と成っています。  
         
 正殿  
         
 前殿の背後には国司が政務を行う正殿が建っています。  
   
     (正殿柱)  
         
 これら日本全国の国府は鎌倉時代に幕府により各国々に守護が任命されると一気に衰退しますが御厨(朝廷の有する土地)などの管理の為に一定期間存続しまています、その間一つの国に国府と守護の2つの行政機関が存在していました、しかし室町期には国府は全て消滅しています。  

 
         
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