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日本に輸入されたガトリング砲   
         
         
   
         
 幕末期、日本にもガトリング砲が輸入されます、アメリカ陸軍がガトリング砲が正式採用した翌年の1867年(慶応3年)に横浜のファーブルブラント商館(イギリス商館)が当時最新式のガトリング砲を3丁仕入れました、一丁12000両(現在価格で約10億2000万円程)もの超高価な値段が付けられ売りに出されました、その内の1丁は越後長岡藩の藩士「河井継之介」が購入、更に河井継之介はアームストロング砲と2000丁ものエンフィールドライフルも購入しています、またもう1丁のガトリング砲は薩摩藩により購入されました。
 これら長岡藩、薩摩藩の購入した2丁のガトリング砲がどの様に使用されたか見てみましょう。
 

 
         
北越戦争でのガトリング砲   
         
   
 1868年(慶応4年)鳥羽、伏見の戦で幕府軍が敗退すると大阪の警備に着いていた河井継之介は急遽江戸へ向かいガトリング砲、アームストロング砲、エンフィールドライフルを購入して長岡へ船で戻ります、同年、新政府軍と奥羽越列藩同盟(旧幕府軍)が越後国で交戦(北越戦争)すると河井は購入したガトリング砲を長岡城下神田口に配備して自ら戦闘で発砲したと云います、結果、新政府軍はガトリング砲により多数の死傷者を出したものの予想以上の効果を得る事ができませんでした、機関銃は使用方法によりその殺傷効果が異なります、例えば突撃する敵兵に対して機銃を正面に配置するのでは無く、敵の隊列に対して両側面に配置する事により大きな殺傷効果を得る事ができます、一次対戦でドイツはこの戦術を模索しイギリス、フランス軍に多大な損害をあたえています。  

 
         
宮古湾の海戦   
         
   
(装甲艦、甲鉄型)  (甲鉄に搭載されたガトリング砲)   
         
 1867年(慶応3年)江戸幕府はアメリカと装甲艦ストーンウォールの購入を契約します、しかし引渡しがなされる前に大政奉還となりアメリカ政府は新政府へこの艦の引渡しを行います、その後ストーンウォールは甲鉄のと改名され先に薩摩藩の購入したガトリング砲が艦後部に搭載されます。
 1869年(明治2年)宮古湾に停泊中の甲鉄に旧幕府軍の回天丸がアメリカ国旗を掲げ偽装して接近しその回天丸に乗船していた「新井郁之介」、「土方歳三」以下100名がいきなり甲鉄に乗り込んできました、当時日本の装甲艦はこの甲鉄一隻で旧幕府軍は本土と海を隔てた蝦夷地、函館を防衛するにあたり海戦の優劣を決める装甲艦甲鉄の奪回を計ったのです、この奇襲作戦対して新政府軍は甲鉄に搭載されていたガトリング砲で応戦します、それにより旧幕府軍は遅参し宮古湾から退去したと云います。
 

 
         
19世紀の機関銃  ガトリング砲の構造    
         
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