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 長峰砦  
         
         
   
         
長峰砦CG、写真  
         
 築城年代 戦国末期  
         
 長峰砦は戦国期の終わり頃に甲斐武田氏の領有する甲斐国、信濃国が織田信長の侵攻を受ける様に成った時代に築城されたと考えられています、当時信長の甲斐武田領への攻撃に乗じて相模国の小田原北条氏も武田領への侵入を計っていました、此処長峰砦付近は甲斐国と北条方の本拠地である相模国の国境に位地する事から幾つもの国境警備の為の砦が築かれていました。  

 
         
 甲斐武田氏の防衛態勢の変換  
         
 甲斐武田氏は武田信玄の時代から本領甲斐国では要害と言う要害は特に築かれていませんでした、それは甲斐武田氏の本拠地甲府盆地が四方を山に囲まれ防衛に適した地であった為で本格的な城郭は築城されず峠道の砦または政務を行う館位にとどまっていました、しかし1575年(天正3年)武田勝頼が長篠の合戦で織田軍に大敗すると状況は一転します、甲斐国、信濃国の武田氏の占領地が織田軍からの侵攻を受ける様になります、その為勝頼は1582年(天正10年)に本拠地を躑躅ヶ崎館から本格的要害である新府城に移しています。  

 
         
 小田原北条氏との対立  
         
 長篠の合戦以後武田勝頼は織田氏との対抗策として越後の上杉謙信や相模の北条氏政と同盟関係を結びます、しかし1578年(天正6年)上杉謙信が急死すると養子である上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の弟)が対立して内乱(御館の乱)が勃発しました、此れにより武田勝頼は氏政の要請で景虎支援の為に越後へ出兵しますが景勝側に付いて内乱の調停を行います、結果内乱は収まりがつかず景勝の勝利に終わりましたが景虎を後押していた氏政は景勝側に付いた勝頼との同盟関係を破棄して武田氏と敵対関係を取ります、この為武田氏は信濃方面から侵攻する織田軍と相模国から攻め込んでくる北条軍との挟み撃ち状態に成りその北条軍に対する対策として大月の岩殿城を拠点に甲州街道沿いの相模国と甲斐国の国境付近に幾つもの出城を構築します、その一つが長峰砦です。  

 
         
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