関東、温泉と旅行記  大月、富士五湖方面      
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 岩殿城  
         
         
   
         
岩殿城CG、写真  
         
築城年代 16世紀頃  
         
 岩殿山は平安末期頃には天台宗の修験道場がおかれていました、それを16世紀頃に武田、小山田氏により要害山に改築されます、大凡この大月は武蔵国、相模国の国境に近い事から武田氏の本拠地である甲府盆地の東の守りとしたのでしょう。  

 
         
 武田氏による小山田領支配と岩殿城の築城  
         
 岩殿城の位地する大月周辺は小山田氏の領有する所でした、小山田氏は平安末期に武蔵国の小山田庄に在住した秩父党「小山田有重」を祖としています、当初甲斐武田氏とは対立関係であった小山田氏は武田信虎の領内への侵攻を受けて武田家に従属します、しかし従属こそはしていますが信虎の時代には武田氏と小山田氏は対等であり同盟関係と言える程でした、武田晴信(武田信玄)の時代になると小山田氏は武田家の傘下に組み込まれ小山田氏の所領である大月周辺も武田家の直轄化が進みます、丁度その頃に武田家は小田原北条氏、山ノ内上杉氏など関東の有力大名との対立が激化し甲斐国の東側の国境が脅かされる様になります、それにより甲斐国東方の守りとして岩殿城が築城されたと考えられています。  

 
         
 武田家の滅亡と岩殿城  
         
 岩殿城は「甲陽軍艦」によれば駿河の久能城、上野の吾妻城と並ぶ三名城とされ何れの城も岩山を要害とした堅固な城郭です、武田信玄はその岩殿城の守りを小山田氏に委託します、1582年(天正10年)に織田信長の甲斐国侵攻により武田勝頼は拠点である新府城を放棄して岩殿城に退去します、当時岩殿城を守っていた小山田信茂は勝頼の入城を拒否して織田軍に寝返りました、これにより勝頼は天目山に落ちて自害し武田家は滅亡します、その後武田家を滅亡に追いやった小山田信茂は信長によい処刑されたと云います。  

 
         
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