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                          石神井城 


         


    石神井城CG、写真 豊島氏宗教文化

    
    築城年代 平安後期~鎌倉初期


 関東に武士が登場したのは10世紀前半で平将門が関東で蜂起した時代です、桓武天皇の流れを汲む武蔵七党(武蔵平氏)の秩父党もこの頃から秩父を開拓し在住していました、更に秩父党の各諸氏は関東各地に進出し、それら地域を開拓、領有しました、畠山、小山田、江戸、河越、豊島氏がそれで豊島氏は秩父氏支流の一派として11世紀前後に豊島郡(東京都練馬区、板橋区、北区)に在住し豊島常家の代で在地名から豊島氏を称したとされています、又豊島氏から葛西氏、練馬氏、板橋氏、志村氏、赤塚氏、滝野川氏、飛鳥山氏などが分流し豊島郡、葛飾郡の各地を開拓領有する事で豊島荘の基礎を堅めていったのです。



                        鎌倉御家人としての豊島氏

  1180年(治承4年)源頼朝は平家討伐の為、伊豆で挙兵しますがあえなく敗退し安房の国へ逃れ此処で馳せ参じる武士達を従え更に千葉氏、上総氏の力を借りて武蔵の国に向かいます、しかし隅田川に差し掛った時に秩父党、江戸重長、畠山重忠、河越重頼らが平家の命により頼朝討伐軍として立ちはだかったです、その中で豊島清光のみが平家の血筋を引いた秩父党でありながら頼朝に忠誠を誓い江戸、畠山、河越氏と頼朝の間に立ち同族達に頼朝へ参ずるようにうながしていったのです、清光の努力の甲斐あって秩父党諸氏は頼朝に従い頼朝は鎌倉へ入る事ができたのです。
 1184年(元暦元年)頼朝が平家討伐軍を京へ差し向けると豊島清光の子清重は源範頼の軍として各地で転戦し壇ノ浦の合戦では九州へ兵を向け先回りをし、平家の行く先を寸断して逃げ道をふさぎ平家軍壊滅に大きく貢献した功績により頼朝から感状を賜り、更に奥州征伐においても数々の戦功上げて頼朝の信認を受けていったのです。幕府草創期に功績があった鎌倉御家人衆、畠山重忠、比企能員、和田義盛などは頼朝無き後、北条氏独裁体制確立の障害と見なされ非業の死を遂げますが豊島清重は異なり生涯御家人衆の中で秀でた存在、幕府の重臣的立場でありました、これは清光、清重親子の幕府への忠誠心が評価されたからでした。



                              一族存亡の戦い

 1331年(元弘元年)後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画、笠置山に籠城しますが落城し幕府軍に捕えられ壱岐に流されます、しかし後醍醐天皇は翌1332年壱岐を脱して楠木正成と共に千早城で再度幕府に抵抗するのです、此れに応じて足利高氏は京の六波羅探題を制圧、新田義貞は上野国で挙兵、武蔵小手指、分倍河原で幕府軍を破り鎌倉に攻め込み鎌倉幕府を滅亡させます、この時、豊島氏も坂東八平氏、武蔵七党ら武士団と共に義貞軍に加わり幕府軍と戦いました。
 南北朝の時代に入ると豊島氏と同じ秩父党の河越氏が同族、高坂氏、竹沢氏らと共に平一揆と呼ばれる軍事同盟を結びます、南北朝の時代には武家一族の宗家による統率された体制が崩れ、同じ一族同氏が南朝方、北朝方に別れ争う事がしばし有り中小の武士団は一揆と言う形で軍事同盟を結び自らの力を固持したのでした、河越氏と同じ秩父党である豊島氏、江戸氏もその平一揆に加わるのです、平一揆は一環して北朝方で、しいては鎌倉公方足利基氏(将軍足利義詮の弟)の主力部隊的存在と成り、リーダー格、河越氏は相模守護職、高坂氏は伊豆守護職へと就任し平一揆の構成員達は鎌倉府体制下で強い意見を述べられる様になったのでした、これは関東の中小武士団が平一揆を組織する事で自らの立場を主張し個々の意思を鎌倉府体制にはんえいさせ、鎌倉公方基氏も平一揆を体制下に組み込む事で関東武士団をまとめて互いの相互関係を保っていたのですが反面、平一揆の存在は鎌倉府の独裁的な体制を支持する側からすれば不必要な存在でありました、その反動が表面化されたのは基氏の死後、関東管領上杉憲顕が基氏の実子で次の鎌倉公方氏満を立て河越氏、高坂氏と対立し、終には河越、高坂氏が館に籠城、鎌倉府に反旗を起こします、豊島氏、江戸氏も同様にこの乱に加わりましたが1368年(応安元年)乱は鎮圧され河越、高坂氏は領地を全て没収され滅亡、豊島氏、江戸氏はその領地の3分の1を取り上げられました、此れにより平一揆は解散し豊島氏は衰退の危機に去らされです。豊島氏がその危機を脱するのが1417年(応永2年)鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏憲(禅秀)との対立によって起こった上杉禅秀の乱で豊島氏は持氏軍として江戸氏、南一揆と共に武蔵国世田原の多摩川河川敷で禅秀軍と戦い一時は敗退しますが再起して今川氏の援軍と共に禅秀軍を鎌倉まで追討します、禅秀一族は鎌倉の雪ノ下の御坊にて自害し乱は鎮圧され豊島氏はその功によって旧領を返還され一族衰退の危機を脱する事ができたのです。




                               豊島氏の最後

 1454年(享徳3年)鎌倉公方足利成氏は関東管領山ノ内上杉憲忠を殺害し公方成氏と管領山ノ内上杉氏の争い享徳の乱が勃発します、成氏は下総古河へ逃れ古河公方と称して山ノ内上杉氏、その一族扇谷上杉氏らと対戦し当初優勢な戦いを展開しますが扇谷上杉氏の将太田資長(太田道灌)が深谷城、岩槻城、江戸城を築き関東北部の成氏方の勢力圏に対して防戦ラインを引き反撃を転回します。
 さて問題はその道灌の築いた江戸城なのですが、その所在地である平川郷とは豊島氏の所領の豊島郡と隣接し現東京都北区の平塚城、滝野川城などに統治拠点を置く豊島氏にとって江戸城は不安要素でありました、例えば合戦時の兵の雇用しても豊島氏の領有する豊島郡東部から徴兵する様になり、当然、税の徴収などの問題も起こってきます、これでは豊島郡東部が太田氏の直轄地なんか豊島氏の勢力圏なのか定かで無くなり統治運営上問題が生じてきます。此れは江戸氏にとっても同様で平川郷は平一揆の乱以前に江戸氏の所領で平川の入り江、神田の地は江戸氏の財政的中核であったのです、江戸氏はこの江戸城近辺の平川郷、桜田郷の撤回の機会をうかがっていました。その好機が訪れたのが1476年(文明8年)山ノ内上杉氏の重臣白井長尾氏景春が管領家執事職の跡目問題で不満を抱き鉢形城に籠もり反旗を翻したのです、この期に乗じて同年豊島氏惣領の豊島勘解由左衛門泰径は石神井、練馬、平塚の格城の戦備を固め江戸城と扇谷上杉氏の本拠地河越との間を寸断します、此れに対して道灌は豊島氏の一族志村氏と赤塚城の千葉自胤の協力で江戸と河越間の連絡路を回復させ江古田、沼袋で豊島泰径と江戸氏の連合軍と戦いこれを破り泰径を石神井城へ追い詰めます、この戦いで豊島方は170名の死者を出し致命的な痛手を被るのです、道灌は石神井城を落城させ泰径は平塚城へ逃走し更に平塚城も1477年(文明9年)道灌によって落城させられ泰径は長尾景春方の城、小机城へと逃走し、それ以後歴史上名を表す事はは無くなりました。この戦いにより300年以上にわたり豊島郡を支配してきた豊島氏は滅亡するのですが完全に消滅した訳では無く道灌側に付いた豊島氏族の志村氏は1564年(永禄7年)第2次国府台の合戦まで存続し同族葛西氏は小田原北条氏の下で活躍します、それ以外にも豊島氏の中には成田氏、甲斐武田氏に属する者もあり、如いては江戸期徳川家の旗本と成る者など豊島氏宗家の功績は後世へ受け継がれていったのです。


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