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 稲付城  
         
         
   
         
稲付城写真、CG  
         
 築城年代 15世後半  
         
 稲付城は伝承によると太田道灌による築城と伝えられています、江戸城と岩槻城を結ぶ岩槻街道沿いに稲付城を築きそれら二城の繋ぎの城としたと考えられますが異説として稲付城より南東へ2km~3kmに飛鳥山、平塚城など豊島氏系の城郭が存在する事から豊島氏による築城とも伝えられています、何れにせよ道灌の死後に稲付城本郭の静勝寺に道灌を祭る道灌御影堂が建てられている点で文明年間(~1486年)には既に太田氏の城であったのは確かです。  

 
         
   
 太田道灌の木造が安置されている道灌御影堂  

 
         
 稲付城に追いやられた太田氏  
         
 太田道灌の孫、太田資高は江戸城主的立場にいました、1524年(大永4年)資高は武蔵国に進出した北条氏綱に対抗し扇谷上杉朝興を江戸城に迎え入れ篭城をしていましたが何を思ったか資高は上杉朝興を川越城に追放し江戸城を氏綱に明け渡してしまったのです、それにより資高は当然自分が江戸城主におさまると思っていたのですが氏綱は遠山綱景を江戸城代として資高を稲付城に追いやってしまったのです、当てが外れた資高は無念を抱き万好斎と号したと云われています。  

 
         
 太田氏反旗を起こす  
         
 稲付城に追いやられた資高ですが氏綱の娘を妻に迎えて志村、広沢、平塚本郷、岩淵五ヶ村と広大な直轄知行地を賜り北条家他国衆の仲でも其れなりの立場にいました、資高はそれ相応に満足したのですが資高と氏綱の娘の間に生まれた子の康資はそうではありませんでした、長尾景虎(上杉謙信)が北条征伐の為に関東に侵攻すると関東諸氏の中で反北条の気運が高まります、太田一族の岩槻城主太田資正(太田三楽斎)もその一人でした、資正が松山城、葛西城と周辺の城を次々に占領すると康資は同族の華々しい活躍に居ても立ってもいられず終に里見氏、太田資正と組んで北条氏康に反抗します、しかし1564年(永禄7年)第二次国府台合戦で里見、太田の連合軍は北条氏康に大敗して康資は里見氏を頼りに安房国に逃げ去りました、此れにより江戸太田氏は滅亡したのです。  
         
 康氏の被官の大半は道灌の滅ぼした豊島氏の一族で康資と運命を共にしたのです、豊島氏族の志村氏も康資の被官であり資正と第二次国府台合戦に参加して後に滅亡します、現志村三丁目の志村氏の居城志村城は赤塚城主千葉自胤の持城と成ったのでした。  

 
         
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