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                            大蔵館




          

  大蔵館CG、写真


   築城年代 平安末期


 大蔵館の歴史についてですが、その歴史は古くおおよそ平安末期頃と考えられます、当初この館には河越重隆の養子と成って上野の多胡郡から武蔵国比企郡に移住した源義賢(帯刀先生)が居住していました。



                              大蔵の合戦

 1154年(久寿元年)源義賢の子、木曽義仲が比企郡嵐山町にて誕生します。幼少の義仲と父義賢は2年あまり大蔵館に住んでいましたが1152年(久寿二年)大蔵の戦いで源義平に義賢は討たれ、義仲は木曽へ落ち延びました、その後の木曽義仲の活躍はここでは省略させていただきます、大蔵合戦以降の館の歴史についての資料はなく出土品や嵐山町近辺の時代ごとの事件などから憶測するしかありません。



                              菅谷原の合戦
 
 1488年(長享二年)関東管領山ノ内上杉顕定と扇谷上杉定正の内紛である「長享の乱」の最中「須賀谷原」(比企郡嵐山町)において山ノ内上杉顕定、太田資康と古河公方足利成氏、長尾景春、扇谷上杉定正の両連合軍が激突します、合戦の最中に都の高僧万里集九が山ノ内、太田軍の本陣平沢寺を訪れ歌会を開きました、集九は資康の父太田道灌とは旧友関係で都への帰路資康を訪ねたのです、時に集九は「敵塁と相対して風雅を講ず」と歌を読み上げたのですが、この敵塁とは大蔵館かその正面の菅谷館かのい何れかであったと考えられています。

  

                     (山ノ内上杉氏、太田資康の本陣と成った平沢寺)

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