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 関東最強軍平一揆の繁栄と滅亡


                         一揆とは? 
 
 南北朝から戦国中期にかけて日本全国に一揆なる武装集団が存在しました、一揆とは百姓一揆、国人一揆、一向一揆など同じ利害関係を持った武装集団を指していいますが元々の一揆とは中小土着武士による結合集団で共に自らの利益を守るための軍事組織が一揆の始まりです、それら一揆は大名クラスの武士団と互角に張り合うだけの軍事勢力を持ち、自分達の利害に有利な方に味方をするという傭兵部隊のような性質を持っていました。事、武蔵国に措いてはその活動は盛んで数多くの一揆が存在しています、主だった一揆衆としては別府氏同族による武蔵一揆、秋川周辺西党により結成された南一揆、河越氏を中心とした秩父党平一揆、高麗氏系武士団の八文字一揆など同族武士を中心とした組織体制を組んだ一揆衆が多数活躍していました。




                      平一揆の結成と組織体制


 さてその平一揆ですがその結成時期は明確ではありません、しかし初めて平一揆が文献に登場するのは太平記の中で観応の擾乱(足利将軍尊氏と弟直義による足利政権を二分した争い)の後に敗北した直義方残党と尊氏軍との戦い、武蔵野の合戦で尊氏軍として活躍するのが最初で、おおよそこの時期が平一揆の結成時期ではないかと考えられます。
 ではその組織体制とはどの様なものであったか?平一揆とは旧桓武平氏秩父党を中心として構成され主だったメンバーとしてはそのリーダー格の河越氏、河越氏同族の高坂氏、竹沢氏、同秩父党豊島氏、江戸氏、又後に八文字一揆が平一揆に吸収され高麗氏などもそのメンバーとなります、これら構成武士団を見る限り関東名族揃いで他の一揆衆とは勢力、軍事力共に大きく上回る存在であったのです。



                         平一揆、繁栄と没落


 平一揆の結成から没落までを簡単にまとめてみました。



1352年(文和元年) 武蔵野の合戦にて平一揆、白旗一揆、足利尊氏軍として旧直義党、南朝勢力の連合軍と戦う、(平一揆初めて文献に登場する。)


1353年(文和二年) 河越直重、武蔵野の合戦の功により相模守護職となる。


同年 関東公方足利基氏、南朝勢力に備えて鎌倉を出て平一揆の勢力圏入間川に陣をはる。


1355年(文和四年) 高坂氏に率いられ平一揆、白旗一揆ら京で南朝方と戦う。


1359年(延文四年) 南軍討伐のため畠山国清に従い河越直重、京に入る。


1361年(康安元年) 畠山国清の乱平定のため河越直重ら平一揆、足利基氏より伊豆へ派遣されるがあえなく撤退。


1362年(貞治元年) 畠山国清没落後、高坂氏重、伊豆守護と成る、又侍所の役に就く。


1363年(貞治二年) 岩殿の合戦、平一揆勢、基氏軍として宇都宮氏と戦う。


1367年(貞治六年) 足利基氏、河越治部少輔らに子、氏満の補佐をたくし没する。


1368年(応安元年) 河越氏、関東執事職上杉憲顕と対立、河越館に篭城し平一揆の乱が起こる・・・・河越氏、高坂氏滅亡                。



 1335年(建武二年)、中先代の乱(南北朝の乱勃発)において河越氏、高坂氏、豊島氏、江戸氏ら秩父党のメンバーは足利尊氏、新田義貞、両軍に一族が分かれて争いました、そのため秩父党各諸氏たちは一族が分裂し存亡の危機にさらされたのです、そこで河越、高坂氏が中核と成り平一揆なる一大軍事同盟を形成させたのでした、平一揆は河越氏を中心に同族高坂氏、古尾谷氏、竹沢、同秩父党豊島氏、江戸氏、八文字一揆(高麗氏系武士団)、相模国においては土肥氏、土屋氏、が主な構成員で常陸国にも平一揆のメンバーは存在していました、それら諸氏の勢力を結集させれば総勢1万の兵力は優に超えた事でしょう、それは西国大内氏、山名氏、東海今川氏などの有力大名と互角又はそれを凌ぐ強大な戦力でした、これぞ正に関東最強軍で武蔵野の合戦以後、宇都宮氏と並び鎌倉府体制下において主力部隊として鎌倉公方足利基氏の指揮下に組み入れられていったのです、政治的場面においても武蔵の乱の功により河越直重が相模守護職、執事畠山国清の乱平定後に高坂氏重が伊豆守護に任命されるなど公方基氏より厚い信頼を受けて鎌倉府体制の中で重要な地位をしめていました、これは他国の一揆衆には見られない事でそれだけ平一揆は他の一揆とは異なり関東ないし全国的に強大な軍事組織だったのです。



                           そして没落へ

 繁栄の一途をたどる平一揆、河越、高坂の両氏でしたがその盛運も長くは続かず、1363年(貞治二年)武蔵野の合戦において旧直義党(南朝軍)に属して越後に追われていた上杉憲顕が足利基氏に呼び戻され関東執事職と越後守護職に就任し関東の政治の舞台に復帰してきたのです、この事にまず反発したのは宇都宮氏で自らの政治的立場を憲顕に侵されるのを恐れ関東復帰を実力で阻止しようと岩殿(埼玉県東松山市)で基氏軍と合戦と成ったのです、この時に平一揆は基氏方で宇都宮氏と戦いました、乱は鎮圧されたのですが問題はこれだけでは治まらず1367年(貞治六年)幼少の子、氏満の補佐を河越治部少輔らに託して関東公方足利基氏死去、それにより基氏を中心として河越、上杉両氏の調和を計っていた鎌倉府体制も崩れ始めてきたのです、まず上杉憲顕が幼少の氏満を盾に河越氏を阻害し自らの独裁体制を築こうとしたため妨げられた河越氏が猛反発、1368年(応安元年)河越氏は蜂起して河越館に篭城、ついに関東最大の軍閥が鎌倉府と幕府に対して刃を向いたのです、しかし戦況は相模、常陸などの平一揆のメンバーの協力を得られず河越、高坂、豊島、江戸、高麗当の武蔵国メンバーのみで戦う事と成り俄然形勢は不利、乱は鎮圧され河越氏とその氏族、高坂、竹沢、古尾谷氏は領地没収、豊島、江戸氏ら乱に加入した氏族に対しては所領の3分の1を割譲され関東最強軍平一揆は解散、400年の歴史を誇る名族河越氏もここに滅び去ったのです。

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