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                       枡形山城



          


  枡形山城CG、写真


   築城年代 鎌倉初期 建久年間


 枡形山城は鎌倉初期、建久年間に鎌倉の北の防衛線、多摩川の河川沿いに築城されました、同様に加瀬城、作延城、小沢城なども築城され多摩川の守備を固めたのです、築城者は小山田信重の子、稲毛重成です、重成は幕府の有力御家人で北条時政の娘を妻として長男稲毛信重に小沢城を与えて自らは枡形山城に移ったのでした、後に稲毛氏は独裁政権を狙う北条氏に滅ぼされ稲毛氏亡き後の枡形山城は戦略上重要な多摩川の河川敷きに位地するために南北朝の騒乱、観応の擾乱、戦国の乱と城山又はその周辺では戦いが繰り替えされるのです。 


                             立川原の戦い

 1487(長享元年)関東管領山ノ内上杉顕定と一族、扇谷上杉定正が分裂して長享の乱が起こります、1504年(永正元年)扇谷上杉朝良と伊勢長氏(北条早雲)は山ノ内上杉氏に対抗すべく連合を組みます、武蔵国進出を狙う長氏にとって多摩川は大きなハードルでした、多摩川の先に拠点を築き足場を固める事により今後の武蔵国への影響力を決定づけられるからです、更に相模国をまだ完全に手中に収めていなかった長氏とって背後の武蔵国から両上杉氏に干渉されるのは好ましい事ではなく、ここで扇谷上杉と和睦し連合を組んで山ノ内上杉氏にダメージを与えておきたかったのです、長氏は枡形山に布陣します、多摩川を一望できる枡形山城に本陣を置いたのです、そこへ今川氏親が扇谷上杉方へ参陣、扇谷、伊勢、今川の連合軍は上州、越後、上野の軍勢を味方につけた山ノ内上杉顕定と立川原で激しく戦います、双方多大な死傷者を出して扇谷、伊勢、今川の連合軍は山ノ内勢を撃破して勝利しました。
 当時、多摩川とは関東を二分する一つの城壁の様なものでそれを越えられるか否かによって戦いの流れを決定づけたのです、元弘の変の際に新田義貞が多摩川の分倍河原で鎌倉幕府軍を破り一気に鎌倉まで押し寄せる事ができたのもその理屈からです。

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