関東、温泉と旅行記  霞ヶ浦、土浦、古河方面      
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 古河城
       
       
 
       
 古河城CG、写真1古河城CG、写真2 城下古河宿
       
 築城年代 12世紀後半
       
 古河城は12世紀後半に下野国の小山氏の一派である下川辺行平により渡良瀬川東側の湿地帯の台地上に館を築いたのが始まりです、室町期には南北朝の騒乱において北朝足利氏の拠点の一つになり1455年(享徳4年)の享徳の大乱の頃には古河公方足利成氏の本拠古河公方館の詰めの城でした。

       
 足利成氏の時代
       
 1454年(享徳3年)鎌倉公方足利成氏は関東管領山ノ内上杉憲忠を殺害して享徳の大乱が起こります、此れにより今川範忠は成氏の本拠地である鎌倉を占領し成氏は下総古河へ退去して新たな拠点に定め自らは古河公方と称しました、成氏は古河の鴻巣に御所を構えてその北側に在った足利氏の館を改築し古河城を建てました、下総古河は室町初期の頃からの足利氏の領有する所であり鎌倉公方の成立以後は歴代の鎌倉公方足利氏の管理下であったのでしょう、古河公方となった成氏の目的は室町幕府に対して自らの権威を示し関東に古河公方を中心とした室町幕府から独立した権力体制を築き上げる事でした、それにより成氏を支持した関東の諸氏は結城、小山、宇都宮、佐竹、里見などの関東北東部の武士達でした、彼らは関東管領山ノ内上杉氏や扇谷上杉氏などによる関東支配体制に以前から不満を募らせ成氏の決起により一気に立ち上がったのです、1478年(文明10年)成氏は山ノ内上杉氏と和解し更に1483年(文明14年)には幕府とも和解して乱は一旦収束しました、これは関東において成氏が権威を握った訳では無くあくまでも停戦協定でした。

       
 小田原北条氏と古河公方
       
 小田原北条氏がしだいに関東に勢力をのばすと第四代古河公方足利晴氏、関東管領山ノ内憲政、扇谷上杉朝定は同盟を組んで1545年(天文14年)小田原北条氏が占拠していた川越城を包囲します、しかし翌年の天文15年に北条氏康より夜襲をかけられ退廃して山ノ内上杉憲政は上野国へ逃走し扇谷上杉朝定は討ち死にし足利晴氏は北条傘下へ下りました、その後晴氏は失脚して氏康の甥にして晴氏の娘婿である足利義氏が古河公方に就任します、義氏は小田原北条氏の下で公方職を行使しますが男子に恵まれず古河公方足利氏は自然消滅しました。

       
 足利氏末裔(喜連川氏)
         
 1590年(天正18年)豊臣秀吉は小田原北条氏を滅亡させた後に古河城に残されていた足利義氏の娘(氏姫)と古河公方の分流である小弓公方足利国朝との婚姻を成立させ下野喜連川に所領を設けました、これは名家存続を大儀とした関東に移封する徳川家康に対しての牽制で関東には古河公方支持の武士達が残存していたからです、江戸期に入り喜連川藩が成立し国朝は喜連川氏を称します、しかしこの喜連川藩は元々対立関係にあった小弓公方家と古河公方家の婚姻で成立した為に両家の家臣達は自らが真の足利家である事を違いに譲りませんでした、また氏姫は喜連川には足を踏み入れず生涯古河の御所(古河公方館)に住み続けたと云います。  

 
         
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