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 笠間城  
         
         
   
         
 笠間城CG、写真1 笠間城CG、写真2  
         
 築城年代 1219年(承久元年)  
         
 鎌倉初期の頃に現在の笠間市付近では真言宗系の正福時と徳蔵寺が寺領をめぐって争っていました、両寺院とも数多くの僧兵を有する有力な寺で当初は徳蔵寺が正福寺より優勢を保っていました、そこで正福寺の座主の生田坊は下野国の守護職の宇都宮頼綱に援軍を要請します、伝承によれば頼綱は甥の笠間時朝(塩谷時朝)を派遣したと云われていますがこの時点で時朝はまだ2歳であった事から派遣されたのは時朝の父朝業であったと考えられています、その後朝業は両寺院の紛争を鎮圧した後に次男時朝を笠間に居住させます、時朝は笠間氏を名乗り佐白山に笠間城を構築しました。  

 
         
 笠間城の築城  
         
 正福寺の要請を受けて出陣した塩谷朝業はまず佐白山の麓に400m程の防塁を築き徳蔵寺の攻撃に備え生田坊と共に総攻撃を開始します、徳蔵寺の僧兵は大敗し朝業と正福寺は勝利しますが佐白山に駐留していた朝業に対して不信に思った正福寺は朝業に攻撃を仕掛けます、それに対して朝業は佐白山の正福寺の伽藍などに焼討ちをかけて正福寺の僧兵を鎮圧し佐白山を占領しました、この事は後に鎌倉幕府より宇都宮氏の陰謀とされ首謀者と見なされた宇都宮頼綱は出家させられます、しかし塩谷氏の笠間統治は引き続き継続が認められ朝業の子時朝が笠間氏を称して佐白山の山頂に居館を設けました、それが笠間城です、その築城は1219年(承久元年)に始まり完成したのは16年後の1235年(嘉禎元年)であったと云います。  

 
         
 笠間藩  
         
 1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めで18代当主「笠間綱家」は宇都宮氏に反発して小田原北条氏に従属します、此れにより小田原北条氏滅亡後に宇都宮氏に攻められ笠間氏は断絶しました、笠間城は一時宇都宮氏の城と成りますが後に浅野氏、蒲生氏と城主が代わり関ヶ原の合戦後に松平康重が3万石で入城して笠間藩が成立しました、その後は幾度も城主が代わり最終的に1747年(延享4年)牧野氏が入城して幕末に至っています。  

 
         
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