関東、温泉と旅行記  赤城、前橋、桐生方面      
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 前橋城  
         
         
   
         
 前橋城CG、写真1 前橋城CG、写真2  
         
 築城年代 15世紀後半  
         
 蒼海城主である総社長尾氏の長尾忠房が現在の前橋城の利根川を挟んだ西側に石倉城を構築します、しかし石倉城は幾度かの利根川の氾濫により利根川流路は変わり城郭は崩されてしまいました、その後長野賢忠により利根川の東側に残った石倉城の一角を再構築して築城されたのが厩橋城(現在の前橋城)です。  

 
         
 長尾景虎(上杉謙信)の厩橋城入城  
         
 16世紀の前半に長野氏は総社長尾氏を圧迫して本城である箕輪城付近の総社長尾氏の勢力を一掃しました、その後小田原北条氏上野国侵攻により長野氏は厩橋城を小田原北条氏に明渡します、1560年(永禄3年)長尾景虎(上杉謙信)は小田原北条氏の上野国侵攻により亡命していた関東管領山ノ内上杉憲政を奉じて関東制圧に乗り出します、景虎は厩橋城を降伏させて入城し此処を関東侵攻の拠点としました、翌年の永禄4年に景虎は武蔵国の小田原北条氏の支城を次々に落城させ小田原城を包囲しました、しかし落城は叶わず景虎は鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行い越後に帰ります、厩橋城はその後一旦小田原北条氏が甲斐武田氏と組んで取り返しますが上杉謙信に奪い返されました、謙信は厩橋城に北条高広を城代としておきますが高広は小田原北条氏に寝返ってしまいます、1569年(永禄12年)に上杉謙信と北条氏康が和議を結ぶと厩橋城は越後上杉氏に帰属されましたが北条高広は1579年(天正7年)に武田勝頼に降伏し厩橋城は甲斐武田氏の持ち城と成りました、その後厩橋城は甲斐武田氏の滅亡後に織田信長の臣滝川一益の支城となり信長の死後小田原北条氏により取り戻され最終的に小田原北条氏の滅亡後に関東に入府した徳川家康の城となります。  

 
         
 城主不在の前橋城(江戸期の前橋城)  
         
 関ヶ原の合戦以後の厩橋城には酒井重忠が入り大々的な改築が行われ三層の天守なども建てられます、その後18世紀初頭には厩橋城は前橋城と改名されました、しかしこの頃に成ると利根川の氾濫による侵食で前橋城の縄張は徐々に破壊されつつあり酒井氏と交代で入城した松平朝矩は前橋に陣屋をおいて川越城に退去していまいました、その後前橋藩は武蔵国川越藩の分領となります。  

 
         
 近世城郭への改築  
         
 前橋の領民の再三に渡る城主復帰を願いにより1863年(文久3年)に前橋城の修復工事が開始されます、この頃には利根川の改修工事により利根川流路も安定した流れとなっています、前橋城の新規修復工事は基本的には従来の日本式の築城方法でありながら西洋式築城方法を要所々に取り入れたそれまでには無い新しい形の城郭です、大砲による防備を主として主要な土塁上には砲台が設置され小口なども洋式化するなど西洋式と日本式の利点を合わせて造りとなっています、またこの修復工事では外部からの砲撃の標準となる高所建築物の再建は除外されています、天守の再建などもこの修復工事には含まれていません。
 1867年(慶応3年)新規前橋城は完成しましたが大政奉還後の廃藩置県により前橋城は廃城となり本丸に前橋県庁が置かれました。
 

 
         
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