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下野国庁 
       
       
 
       
 646年(大化2年)の「大化の改新」以後に日本の律令政治は徐々に推進され663年の「白村江の戦」で唐、新羅の連合軍に大敗すると中大兄皇子は国内の律令体制を急進させます、「白村江の戦」以後、唐、新羅は事実上日本の仮想敵国となりそれらの国々に対抗するべく朝廷は国力の増強を図ったのです、公地公民制は強化されそれまで郡雄として各地方に君臨してきた豪族達は郡司となり朝廷配下の地方官の立場に位置付けられました、更に朝廷は郡司達の行政、司法の取りまとめ役として国内の各分国に国司を配置します、その国司が政務を執行する行政機関の庁舎群を国衙と呼び中心的建物を国庁(現在で言う県庁舎)と呼んでいました、国衙には国庁以外に国司の館、官僚の住居、兵舎、使用人の住居なども配置され一つの地方都市の様な状況でした、更に国衙のまわりの御厨(朝廷の所有地、国領)を合せて国府と呼びそこには国分寺なども含まれていました、今回はその国府、国衙、国庁について下野国庁跡を参考に当時の状況を見てみましょう。

       
 下野国庁
       
 
 国庁は国府の中心的建物群で中心の前殿、その両脇に脇殿、前殿の背後には正殿が配置され規模は異なりますがその位置関係は全国略同じです、下野国庁は95m四方の区画にそれら庁舎が配置されていました、また下野国庁の庁舎は8世紀前半、8世紀後半、9世紀、10世紀中頃の4回に渡り改築がなされています、最後の10世紀中頃の改築について丁度同じ頃に下野国府は平将門軍に占領され将門の弟「将頼」が一時国司と成っていたのでその時代に改築がなされたと考えられます。

       
 下野国庁の外周 
       
 
(南門)
 
 下野国庁の外周は板塀で囲まれその更に外側には堀が設けられていました。 
(西門) 
       
 その四方には正面門である南門を中心に西門、東門と裏門である北門が開かれていました。 
 
(東門側の堀) 

       
 中央の広場 
       
 
 南門から国庁の敷地内に入ると少し開けた場所へ出ます、此処は国府の行事などが行われた場所です、行事の時には正面の前殿に国司が立ちこの広場に役人が整列してまいした。 

       
前殿 
       
 
 南門、広場の正面には国府役人が儀式、行事を行う前殿が設けられています、その規模は平安初期の9世紀の改築で東西25m、南北8,5mある礎石立建物でした。

       
脇殿 
       
 
 前殿の正面両脇には西脇殿と東脇殿が配置されていました、脇殿は主に役人達が処務を行う施設で規模は9世紀の改築時で東西4,8mの南北45mでした、また前殿と同様に礎石立建物です。 
(西脇殿跡)  (東脇殿跡) 

       
 正殿 
       
 
    (正殿跡の宮野辺神社) 
       
 前殿跡の裏手の宮野辺神社には正殿が建てられていました、正殿とは国府の中核的役職の守、介、掾、目と言った所謂国司と呼ばれる役人達が政務を行う建物です。 

       
南大路と国司の館 
       
 
(南大路)  (国司の館) 
       
 南門から外へ出ると南大路が南方へとのびていました、その通り沿いには国司の館、役人の居住区、兵舎、使用人達の家屋などが建ち並んでいました、国庁とそれら建物群を総じて国衙と呼びます、国衙は平城京を小規模にした一つの都市の様なものです。 

       
下級官僚の居住区 
       
 
 国衙には下級官僚達の居住区も存在しています、奈良期の下級官僚は一般農民と同じ竪穴式住居を住まいとして生活水準も農民とさほど変わらない状況でした、ただ一点異なる事は役人は自給自足農家と違い給料制なので最低限の生活は保証されていた事です、しかし当時「冠位十二階」が制定されているとは言え出世できるのは極一部の役人で大半の者は貧しいままの生活で終わる様でした、それ故に平安期に入ると不正、汚職が横行する様になります、更に武士の登場により荘園が国内の至る所に確立されると武士達はその公的保護を求め国司に献金などを行う様になり公地公民制は次第に崩壊して行きます。 

       
下野国分寺 
       
 
 下野国衙の東側には思川が流れ対岸には下野国分寺と国分寺尼寺が建てられていました、各国々の国分寺は行政上国衙の近くに建てられる事が多くその場合い国分寺も御厨(国領)内に属し国府の範囲内入ります。 

       
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