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 権現山古墳群  
         
         
   
         
 築造年代 3世紀  
         
 埼玉県ふじみ野市の新河岸川沿いの丘上に弥生時代末期の墳丘群があります、権現山古墳群と呼ばれ大凡3世紀の時代の古墳群です、この権現山古墳群は前後共に方形状の墳丘である前方後方墳1基を中心に方形状に溝を掘り簡単に盛土をしただけの簡素な墳丘である方形周溝墓が十数基発見されています、これら墳丘は大和王権成立以前の弥生時代末期のものとされ丁度同時代に畿内もしくは九州に魏志倭人伝に記載されている邪馬台国が存在した頃と同時代の古墳群です。  

 
         
 邪馬台国と狗奴国の紛争  
         
 邪馬台国が存在した時代に関東は如何なる状況であったのかを見てみましょう、一般に魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は九州説と畿内説の二箇所の存在説がありますが近年それら九州、畿内を含む西日本全体に広がる連邦国家であったと考えられています、所謂「邪馬台国」とは西日本の小国家の同盟でその頂点に女王である卑弥呼が君臨していたと言う事です、魏志倭人伝には邪馬台国は卑弥呼が君臨していた時代に邪馬台国と対立するもう一つの国家「狗奴国」があり邪馬台国と紛争状態に成り紛争の最中に卑弥呼が死去したと書かれています、その狗奴国は南九州もしくは四国に存在した国であったとの説がありますが現在の愛知県から東海地方を領有し関東平野はその同盟諸国が点在していたとも言われています、狗奴国が愛知、東海、関東に位置していたか否かはわかりませんが何れにせよ当時の濃尾平野より東側は朝鮮半島民もしくは東南アジア系民族が先人として居住し各小国家を設立させ西側の邪馬台国とは異なる文化圏を築き上げていたと考えられています。  

 
         
 方形周溝墓  
         
   
  (権現山12号墳)  
         
 権権山古墳群を構成する方形周溝墓は大凡3m~7mに四角く溝を掘りその土を中央に盛り上げただけの簡単な墳丘で弥生時代後期に全国で造られています、その後の大型古墳の原型と成った墳丘で首長などの豪族達を埋葬するものでは無く一般の人が家族単位(3人~5人程)で埋葬される墓です。  
   
 (権現山10号、3号墳と権現山3号墳)  
         
 墳丘群の中には墳丘の掘りが重なりあったものも見られます、(10号墳と3号墳)  

 
         
 権現山2号墳  
         
   
 権現山2号墳は方形周溝墓が日本各地で見られる前方後円墳への進化の過程にある墳丘です、前後共に方形の前方後方墳である2号墳は全長32mで20m四方の後方部に長さ12mの小ぶりな前方部が取り付けられています、古墳の原型とされる方形周溝墓に祭壇である前方部を設けた墳丘でこれが後に後円部が円形になり巨大前方後円墳に進化します。  
   
 2号墳はその規模と形状からこの辺り一帯を治める盟主の墓とされています、またこの頃の前方後方墳には埴輪などは見つかっていません。  

 
         
 権現山7号墳  
         
   
 権現山7号墳は権現山古墳群の中で最大規模の方形周溝墓で一辺が7m四方程あります、その規模と中心的墳丘である2号墳の真近に造られている事から2号墳の被葬者である盟主の近親者の墓と考えられます。  
   

 
         
 権現山古墳群南西側の住居跡  
         
   
 権現山古墳群の南側から西側にかけて同時期の住居跡が幾つか見つかっています、これら住居跡は権現山古墳に埋葬された人達の集落で北東側を集落、南西側を墓所としたのでしょう。  

 
         
 北を流れる新河岸川  
         
   
 権現山古墳群の北側段丘下手には新河岸川が流れています、古来より新河岸川は灌漑、水路などに大いに利用され新河岸川流路の両岸には縄文期、弥生期の住居跡、貝塚などが数箇所で見つかっています。  

 
         
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