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戦国時代の兵器1   
(装甲兵器)   
         
   
 
         
功城兵器 戦国時代の大砲  
         
 このコーナーでは戦国時代に発明された数々の兵器を見てみましょう、戦国時代の中期に火薬が西洋より伝来する事により戦略上大きな変化が起こります、其れにより城の造りも鉄砲からの防御を考慮して盾板の壁から土壁、漆喰塗りへと強化されています、その時代、火器などから身を守る為の装甲兵器や強化された城塞を破砕する為の兵器が幾つも考案され実戦に投入されました、今回はそれら戦国期に実際に使われた装甲兵器、功城兵器などを再現してみました。  

 
         
車井楼   
         
   
 戦国期後半に功城戦で良く使われた全面及び側面に分厚い木製の盾板を施した移動式の井楼です、偵察はもちろん功城兵の支援に使用されました、敵の城壁より高い位置から鉄砲、弓を放ち城壁を登り城内へ突入する兵の援護に有効的な装甲櫓です。   
   
 しかしこの井楼は大掛りな兵器の為に移動(戦場までの輸送)は困難であったと考えられます、狭く勾配のキツイ街道筋の峠道の移動や河川を渡る事はできなかったと思われます、、その為に解体して輸送し戦場で組み立てていたのでしょう。   

 
         
車竹束   
         
   
 竹束は銃弾を貫通させません、当初、弓矢から身を守る為に木の板を盾とした押車が考案され戦場で使われていましたが鉄砲が実戦で使用される様に成ると竹束を全面に取付けた押車が登場します、2名の兵が車を押してその背後に切込み兵が身を隠し敵に近づき敵陣へ切込む戦術です。   

 
         
大盾   
         
   
 大阪夏の陣に登場した鉄製の装甲板を全面に施した押車です、2名ないし3名の兵が後から車を押して2名程の兵が台車に登場し鉄砲、弓を撃ちかけながら前進する仕組みです、全面の装甲板は厚さ五寸(16,5cm)の木製板の上に厚さ3寸(10,5cm)の鋼鉄製の板が張り付けれていました、更にその装甲板は鉄製の支柱で補強されています、当時鉄砲の口径は6mm程が標準で現在の2口径の銃と略同じ威力です、鉄砲から身を守るのであれば10cm程の木の板で十分です、16cmの木の板の上に10cm以上の鋼鉄装甲を施す理由は完全に砲弾の直撃を意識しているのでしょう、また鋼鉄板は斜めに取り付けられています、此れにより着弾した砲弾が上へと弾き上がり衝撃を緩和する効果があります、ちなみに大戦中に連合国から脅威とされたティーガ-重戦車の装甲板の厚さは大盾車と同じ10cmでソビエトのT34戦車、アメリカのシャーマン戦車の75mm相当の対戦車砲弾を至近距離から弾き返しています、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。   

 
         
仕寄車   
         
   
 仕寄車は敵陣もしくは敵の城壁に突撃を仕掛ける際に突撃兵を銃弾、弓、火薬玉などから守る為に考えられた手押し式の装甲車両です。   
   
 通常仕寄車は10名程の兵が木板に囲まれた車中で車を押しながら鉄砲、弓を放ち敵軍に攻撃を仕掛け前進ます、それと同時に仕寄車の後手に切込隊を配置して仕寄車を弾除けとし敵陣直前まで近づくと一気に突撃をかける戦術をとっていました、これは第一次対戦中に戦車を全面に歩兵が敵陣の塹壕を突破する際もちいた戦法と同じです。   
   
 戦国末期には鉄貼の仕寄車も考案されたと云います、実際に戦場に登場したのかはわりませんが、もし使われていたとしたなら敵軍の砲弾、火薬玉をかわしながら敵城壁へ近づき直前で大鉄砲などで城壁、城門へ一撃を食らわす攻撃に使われていたものと考えられます。   
   

 
         
吊井楼   
         
   
 戦場では高台の登った索敵兵が鉄砲などで狙い撃ちされる事が多々有りました、そこで考案されたのが吊井楼です、木製の箱に兵が入り縄と滑車で箱を吊るし上げ敵陣、敵城内の索敵、偵察をします、上記の車井楼と比較して軽量、コンパクトで移動の際にも容易く戦場では良く使われていました。   

 
         
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