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 中世東国の海上戦(関東の軍船)  
         
         
   
         
東国大名の水軍  
         
 今回は戦国期の海上戦について見てみましょう、海上戦は陸の戦いと異なり海に対して十分な経験と知識が必要とされ戦国大名はその経験と知識を持った海岸沿いの領主達を取り込み水軍を編制し制海権を確保しようとします、同時にそれまでは一般の船舶で行われた海上戦でしたが戦国大名は新たに戦闘用に建造された軍船を装備する事により海上戦において大きな変革をもたらすのです。
 16世紀前半頃までの海上戦では一般の船舶の両脇に盾を並べたくらいの艦船が中心でその戦術も白兵戦が主でした、しかし16世紀中頃から戦闘を目的として強固で機動性に優れた軍船が登場します、それら軍船は鉄砲、重火器などを装備した大型船から快速性に優れた小型船まで用途に応じて建造されたのです。
 

 
         
 安宅船  
         
   
 近世に措いて所謂戦艦に相当する艦船で全長は25m以上で総排水量(船体重量)は100トン超でした、箱型の船体が主な特徴です、西国では瀬戸内海の覇者村上水軍を吸収した毛利水軍が織田水軍と対抗すべく安宅船に連射に優れたフランキ砲(石火矢)と呼ばれるカートリッジ型(薬きょう式)の後装式砲を装備しそれに対して織田水軍は安宅船に鉄板を貼り付けた世界初の鉄甲艦を建造しました。  
   
 船底部は漆喰と切石で固められその内側は防水隔壁により一部亀裂が入っても浸水しない構造と成っています、その上部には椋の木の立て板が張られ鉄砲、弓などの防御とし最上段には櫓を設置して近世の艦船に見る艦橋の役割をしていました、北条氏直が伊豆で建造した安宅船は船底に水夫50人、上部に戦闘要員の武士50人を配置し至近距離から鉄砲を放たれても貫通する事が無かったと伝えられています、1580年(天正8年)北条氏の大型水軍は沼津の武田陸軍をを攻撃すべく重須湾を出陣しました、武田軍は海岸に土塁を築き数百丁の鉄砲で北条方の安宅船に発砲しますがほとんど効果は無かったそうです。  
   

 
         
 中世のバトルクルーザー関船  
         
   
 早船とも呼びます、安宅船より一回り小ぶりで装甲は薄い代わりに速力、機動性に優れ水軍においてはフリゲート艦(戦闘巡洋艦)に位置する軍船でした、安宅船の構造と比較して船体は細長く船首が尖っているのが特徴です、関船の語源は海賊を取り締まる関所で使用する船からきているとされその快速性から用途は海戦に止まらず物資、人などの輸送にも使われていました、江戸期に入ると500石積以上の船舶の建造が禁止されこの関船が一般の海上輸送に使われる様に成ります。  
   
 櫓は大凡40挺立程で船体上部は安宅船と同様に総櫓を囲むかたちで立板装甲がほどこされています。
 最上部は安宅船の様に索敵様の櫓は特に設置されていません。
 
   
 (関船内部)  
         
 1894年(明治27年)日清戦争の最中の黄海海戦では7000トン級の巨砲艦「鎮遠」「定遠」を主力とする清国北洋艦隊に対して日本海軍は4000トン級の高速巡洋艦「松島」「厳島」「橋立」を中核としその速力と機動性にものをいわせ速射砲を連発して「鎮遠」「定遠」を大破、撃沈させ見事に勝利しました、海戦において速力と機動性は勝利の為の重要な要です、ちなみに瀬戸内の覇者村上水軍は快速性に優れた関船を中心とする水軍編制でした。  

 
         
 小早船  
         
 関船より更に小ぶりで軽快な軍船です、安宅船を戦艦、関船を戦闘巡洋艦とするならこの小早船は軽巡洋艦、高速巡洋艦と言ったところでしょう。  
   
 安宅船、関船と比較して装備は軽く立板装甲も弓矢から身を守る程度です、主な小早船の任務は大型船の援護、偵察、輸送、護衛と補助艦敵役割を果たしていました、また関船を上回る快速性から奇襲攻撃には小早船が有利であったとされています。  
   
 小早船は喫水線が低い為に河川の奥まで進入が可能で陸路の輸送などにもよく使用されていました。  

 
         
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