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 近代の軍艦史      
       
ペリー艦隊CG 
       
       
 
       
 1853年(嘉永6年)アメリカ海軍東インド艦隊の蒸気艦2隻と帆走艦2隻の合計4隻の艦隊が久里浜に来航します、それに危機感を感じた江戸幕府は急遽江戸湾の防衛の為に品川沖の「お台場」に11箇所の砲台を設置して更に大船禁止令を解除し各藩に軍艦の建造を認めます、また幕府は浦賀造船所を設置しオランダに軍艦を発注すなど海軍の設立を開始しました。
 当時米国海軍は帆走艦と蒸気艦の変わり目の時代であり海上戦術の大きな転換期でありました、それまでの海戦はナポレオン時代の様な大砲を艦の至る所に設置してめちゃくちゃに敵艦に打ち込む戦術から風向きに囚われずに効率良く敵艦隊の弱点を突く戦術へ変化します、ではその様な海戦の変革の時代、日本に来航したペリー提督率いる艦隊の艦船とはどの様な軍艦であったのかその内幾つかの艦を見てみましょう。

       
 サスケハナ、Susquehanna
       
 
 起工1847年  排水量2450t
 全長78m   最大速力10ノット 
 外輪式蒸気艦   退役1868年 
 
 1853年(嘉永6年)の第一回目の日本来航の旗艦となった艦で戦闘巡洋艦(フリゲート艦)もしくは巡洋戦艦に位置付けされる軍艦です、外輪式艦としては米海軍の最終型です、起工後に太平洋艦隊に所属して1856年~1861年まで地中海艦隊、1861年~1865年にはアメリカ南北戦争に北部海軍として戦列し以後大西洋艦隊へ編入されています。 
 
(サスケハナの側面外輪) 
       
 サスケハナの搭載砲は20、3cm前装式パロット、ライフル砲が2門、23cm前装式ダルグレン滑腔砲12門、7、62cm前装式ライフル砲1門です。 
 
 (パロットライフル砲)
       
 サスケハナのパロットライフル砲は口径20cmを超える大型ライフル砲でライフリングが彫られている為に射程距離も長く所謂此の艦の主砲でした。 
 
 (ダルグレン砲) 
       
 サスケハナには12門のダルグレン砲が搭載されていました、ライフリングが彫られていない為に射程距離はのびませんが砲身後部の肉厚が太い為に大量の火薬を詰込む事が可能であり距離の近い敵に一撃を食らわす事に優れています。 
   
 (サスケハナ側面の横一線に並ぶダルグレン砲とパロット砲) (ライフル砲と滑腔砲) 
       
 ライフリングが彫れたライフル砲に対して砲身内側に加工の無い大砲を滑腔砲と呼びます、ライフル砲は砲弾に回転をつける為に射程距離はのびますがライフリングにより砲身内に隙間ができるので破壊力は滑腔砲よりも劣ります。
 サスケハナの大砲は全て前から弾を込める前装式砲で砲弾を装填するたびに大砲本体を後に引下げていました、それにより砲弾の装填、発砲には其れなりに時間を有していました。 

       
 ミシシッピ、Mississippi 
       
 
 起工1839年  排水量1692t
 全長69m  最大速度8ノット
 外輪式蒸気艦  1863年自沈
 
 ミシシッピは戦闘巡洋艦(フリゲート艦)で米海軍初の蒸気機関搭載の軍艦でした、日本来航以前には西インド艦隊の旗艦で1853年(嘉永6年)と1854年(嘉永7年)の二回の来航ともに随行しています、南北戦争中に南軍のハドソン港攻撃において座礁し自沈されました。 
 
 (ミシシッピのぺクサン砲) 
       
 ミシシッピには25,4cmぺクサン砲2門と20,3cmのぺクサン砲8門が搭載されています、ぺクサン砲とは1823年フランスで開発された炸裂弾を発砲する大砲です、炸裂弾は木造艦には破壊効果はありましたが後に登場する装甲艦にはあまり効果はありませんでした。 

       
帆走艦サラトガ、Saratoga 
       
 
 起工1841年  排水量882t
 全長45m  帆走スループ艦
 退役1888年、1907年解体  
 
 ペリー艦隊は蒸気艦ばかりでは無く従来の帆走艦も存在しています、1853年来航「サラトガ、プリマス」、1854年来航「サラトガ、マセドニア、バンダリア、ササンプトン、レキシントン、サプライ」などは帆走スループ艦、帆走補給艦です、黒船来航当時は蒸気艦と帆走艦が兼用されていた時代でナポレオン時代の様な帆走砲艦が現役で活躍していました。
 サラトガは進水後に米アフリカ艦隊に所属して現地商業活動の保護と奴隷貿易の監視任務についていました、その後「米塁戦争中」にはテキサス湾でメキシコ軍を牽制し米ブラジル艦隊、本国艦隊、米東インド艦隊と任務地を変えて二度の日本来航後に米西アフリカ艦隊に編入し1863年には南北戦争に参戦しています、1877年には練習艦と成り1888年に退役、売却されて1907年には解体されました。
 サラトガは8インチ砲4門と32ポンド砲18門の合計22門を搭載していました。

       
 ポーハンタ、Pawhatan 
       
 
 起工1847年  排水量2415t 
 全長78m    速力11ノット
 外輪式蒸気艦  1886年退役
       
 ポーハンタはサスケハナと規模、外観共に略同じで同型艦です、本国艦隊に所属した後に東インド艦隊へ編入されその間に1854年の下田来航に参加しています、下田湾に停泊中はサスケハナに変わって旗艦に成り1858年(安政5年)には新見正興、村垣範正、小栗忠順、以下77名の日本外交使節団を横浜で乗船させホノルル経由でアメリカへと向かいました(咸臨丸はその3日前に出港)、その後南北戦争に参加して1886年に退役し翌年解体されました。

       
       
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